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【連載】人的資本経営の実務を全体的に捉えるために(5) 人的資本経営の国内の実践事例

作成者: 松井 勇策|Jun 21, 2024 12:10:00 AM

人的資本経営の実践の事例について

本稿では、人的資本経営の国内の実践事例を解説します。たとえば下記の企業A社を想定事例として考察します。このA社について経営計画上重視されるポイントが下記だとします。このような経営上の注力点については、上場企業であれば有価証券報告書や中期経営計画に書いてある内容ですし、中小企業でも何らかの経営計画が検討されていることは多いと思います。

A社で経営計画上重視されるポイント
・ポイント1 「M&Aの後の事業成長」
・ポイント2「経営陣の固定化が課題視されている」
・ポイント3「注力商品のαを中期的に伸ばす方針」

これは典型的な想定企業ですが、例えばこうした企業において人的資本の戦略というのはどのように想定されるのでしょうか。

結論から言いますと、人材戦略はこの場合、既に列挙されている中長期における課題と繋がった人材戦略を立てるということが最も重要な点となります。たとえば想定企業の場合、上記の経営計画上、全てのポイントが人材戦略と繋がるものですので、このそれぞれについて考えていきます。その上で、次段階としては考察した人材戦略について優先順位をつけていくということになります。

ポイント1「M&Aの後の事業成長」

M&A後の事業成長が経営計画上強く認識されており、これを実現するための人材戦略がどのようなことがあり得るのか、ということを短期と中長期において考えていくと言うことです。M&Aの課題などは中長期的な人材課題が様々に含まれると思われ、短期的な戦略も様々に含まれ得ると思います。

たとえば、M&A後に、部署や属性のセグメント別にエンゲージメントを計測し、それぞれの部署における内発的な仕事へのスタンスや人事施策について検討していくということや、その他さまざまな施策が考えられます。

ダイバーシティの観点での課題として、違った文化風土を持つ社員のそれぞれの属性の社員の間でどのような各論の課題が起きているか、これは業務の仕組みから、これまでの育成指針などまでが関わってくるところだと思います。M&A後の組織風土において、どのような部分のダイバーシティ施策を考えていくか、ということは認知的な面や雇用継続の側面で検討が重要な部分です。

ほか、育成側面で、M&A後の部署の相乗効果を図るためにどのようなスキルやコンピテンシーが欠けているのか、生かしていけばいいのか、ということも重要な場合が多いでしょう。これも検討が必要です。

経営戦略と人材戦略を繋ぐというのは、このように「経営上の中長期課題に対応する人材戦略を構築する」ということを重視するという意味であると考えられますが、このことがあまり認識されていません。
上記のような人材戦略は直感的に考え得る、経営的に常識的な視野の範疇だと思いますが、現状の様々な経営戦略において、人材戦略の部分については意外なほど繋げて考えたり外部開示したりということが見られず、「いわゆる人的資本経営的な施策を行おう」とされてしまう場合が多いと思われます。
人的資本経営の重要な観点の1つは、こうした中長期の経営課題と繋がる人材戦略をまずは考えて実施する、成果と内容を開示するということであると思います。

上記のM&Aと同様に、注力商品をどのように伸ばしていくか、経営陣の固定化をどのように解決していくか、ということも中長期の人材戦略と繋がる課題だと思います。これも同様に考えていけば、様々な人材戦略が想定されるでしょう。

ポイント2「経営陣の固定化が課題視されている」

A社では、経営戦略の2点目に「経営陣の固定化が課題視されている」というものもありました。
これは、サクセッションプランニング(後継者計画)を行うということになります。典型的には、経営陣の交代や育成がうまくいっていない場合、あるいはグローバルレベルでの経営計画の策定ができるレベルの経営陣を育成・配置する計画のことまで視野に入れて計画を立てることが考えられるとも言われています。

新興企業で、経営者をずっと創業社長や創業期の経営陣が務めている場合に、その後の体制をどう考えるか、ということも含まれます。こうしたサクセッションプランも中長期での育成や人材配置と関わります。
また、女性管理職比率の向上ということが制度開示の内容として示されていますが、男女などの性別に関するダイバーシティ観点も踏まえ、どのように社内のダイバーシティ観点で全体を捉えより良い状態にするか、といった非常に広い射程の問題も含まれてくることになります。

こうした経営上の中長期課題は上場企業の場合有価証券報告書などで様々に記載がされていると思います。経営戦略のところには端的に表記がありますし、事業リスクの箇所などにも避けるべき状況の端的な記載があることが多いと思います。
「経営戦略と人材戦略を繋ぐ」ということは、何か難しい抽象的な思考が必要なわけではありません。財務・経営上の戦略だけでは実質的にも十分でないといえる、経営戦略について、そのまま繋がる人材戦略の中長期の視点を検討するということです。

ポイント3「注力商品のαを中期的に伸ばす方針」

A社では、経営戦略の3点目に「注力商品のαを中期的に伸ばす方針」というものもありました。こうした、注力商品を伸ばす場合に「体制を構築する」というような人材戦略をまず設定する場合が多いと思います。また「人件費と生産性のバランスを取るべく生産性の向上を進める」などということが想定される場合も多いと思います。

これも一つの人材戦略なのですが注意しなくてはならないのは、この方針については中長期的な計画とは通常結び付きにくいということです。
現在の人的資本経営の議論で重視され、かつ人材戦略で主に意図されているのは、たとえば注力商品を伸ばす場合、それが確実に中長期的に伸ばしていけて、かつ継続的な企業の成長に繋がる、人材の像や、風土や環境などを含めた人材戦略を指しています。

中長期にわたり商品や納品形態を発展させ改善させつつ発展させるためには、ダイバーシティ観点で問題はないか。社内での分業や体制構築の上で、ライフステージや特性に応じた活躍が十分にできる状態になっているか。どういう風なエンゲージメントやる気と当事者意識の状態で働けばいいのか。

DX関係や様々なスキルに関連する育成体制は充分であるかどうか。戦略立てる経営陣や管理職の育成観点での課題やその解決はどう考えられているか。そういった人材とはどういう部署でどのような課題を抱えており、どう解決すればいいか。こうした中長期の観点で見ていくことが重要であるということです。

人的資本可視化指針ではどう書いてあるか・リスクの捉え方の留意点

以上のようなことが、内閣官房から発出されている、人的資本経営の実務指針となる中心的な書面である「人的資本可視化指針」には明確に表現されています。特に総括的に実務のプロセスが表現されている、最初の2「人的資本の可視化の方法」を詳細に見ていきましょう。

※人的資本可視化指針(内閣官房)より

人的資本の可視化の方法としてまず可視化において企業経営者に期待されることとして、中核人材に関する方針、人材育成方針、人的資本に関する社内環境整備方針(これらは有価証券報告書で報告をすることが今後義務付けられる内容です)について自社が直面する重要なリスクと機会、長期的な競争力と関係づけることが書かれています。

こうして構築された人材戦略の軸の部分は言葉で表されるので独自性ということになります。
また、比較可能性という風に表される、定量的なものが多いですが、比較可能なデータの内容については、上記で見たM&Aやサクセッションプランであれば、エンゲージメント・ダイバーシティの何らかの事実や指標を把握したり、サクセッションプランで想定されるポジションについての充足率を測定したり、などという風にも想定されると思います。これらの要点を踏まえながらストーリーを作りつつ留意すべき指標も定めていくということです。

これらを定めるのが上記の「人的資本可視化指針」2-2で言われる「人材資本の投資と競争力の明確化」だということです。自社の経営戦略と人的資本への投資や事業戦略のストーリーを作るということです。

その上で2-3として4つの要素として、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標として、まずはガバナンス、決めたことに対する経営の責任体制を決め、戦略としてのストーリーそのもの、どんな風な段取りでその目標に向かって一歩一歩の人材戦略を動かしていくか、といったことが必要です。

A社の事例でも、育成やサクセッションプランを進める上で、思い切った施策を行おうとするほど、人事労務リスクやその他様々なリスクが生じ得ると思います。目指す状態において今よりもより生じやすくなるリスクもあれば今見過ごされている可能性があるリスクもあると思います。

「人的資本可視化指針」の2-4の比較可能性の観点に「自社の戦略とリスクマネジメントを紐付けて開示」と書いてあるのは、独自のストーリーをまずは言語化し、開示するということと、その後にその戦略のリスク部分にどのようなものがあるかを検討し特定して、戦略的な対応を考え、開示も行うということでしょう。

 実例に即して人的資本可視化指針に書いてある情報を咀嚼すると、相当明確に人的資本の開示あるいは人材戦略の定め方というのが見えてくるのではないでしょうか。このように、実例をもとに、実務的に人的資本可視化指針を読んでいくと非常に分かりやすくなります。